KINGEI MARUI

1909(明治42)年10月19日、愛知県葉栗郡北方村(現在の一宮市北方町)に生まれる。
本名:丸井金蔵きんぞう。雅号:丸井金臣きんしん→丸井金猊きんげい

1928(昭和3)年、愛知県立工業学校(現在の愛知県立愛知工業高等学校)卒業。
1928(昭和3)年4月、東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科入学。
1933(昭和8)年卒業。同年4月、同校研究科入学。1935(昭和10)年終了。

画家として道を模索しながら、私立川村女学院(現川村学園)美術科、埼玉県立浦和第一高等女学校(現浦和第一女子高等学校)教諭を歴任。
1946(昭和21)年には東京美術学校日本画科講師、翌1947(昭和22)年同校工藝科講師。
そして、1948(昭和23)年より以降20年以上に渡って神奈川県立神奈川工業高校工芸図案科(のち産業デザイン科)教諭を務める。

和洋エジプト入り乱れた独特の画風で、学生時代より旺盛な創作活動を見せるが、30歳に差し掛かる頃、時代は戦争へと暗転。以後ほとんど自作品の創作に向かうことなく、晩年を迎える。神奈川工業高校退職後、「死ぬ前に一度個展を」と再び絵筆を握り始めるが、1979(昭和54)年7月12日、心筋梗塞のため武蔵野市日赤病院にて急逝(享年69歳)。

1930年国際美術協会主催第一回美術展覧会入賞主席。主な仕事として1935年愛国生命保険(のち日本生命保険)壁画製作、1937年には阪急電鉄の創業者である小林一三氏の委嘱により東宝劇場階段ホール壁画製作(火災により焼失)などを行っている。